若山和央
バリに着いてまもなく、クタの街を散歩してる時に見かけた彫刻専門の土産物屋。
主人はあまり売る気もなく、床に工具を広げて自分の作品を作っていた。
売っているのは実家の周りの農民が彫って、お店を持ってる先生に頼んだものなのだが、そのスーベニールの間にひときわオーラを放つ、全く別格の作品が点在していた。
未だ知らないこの島の独自の神話世界を表現しているのであろう、ドラマティックな何かが伝わって来るようなものたち。それとは別に、造形的なこと。 内側に向かう力と外に向かう力が均衡しつつせめぎあっている境界の面、みたいな事を その時はじめて感じたのだ。
あまりに長くじっと作品を見てるので主人から声をかけてきた。
「あなた絵描き?描いた絵があったら見せて。」
ナップザックに入っていたスケッチブックには、そこに着くまで通って来た台湾、香港、中国、タイで見かけた「何か感じる」対象からその「感じた」部分だけを抽象的に描いた、他人が見たら何だか判らないようなものが描かれていた。ふんふんと時たま少し微笑んで見たあと
「今度実家に遊びにいらっしゃい。私の彫刻がいっぱいある。」と言った。
その主人がウェチャ(Wetja)先生だった。
その場で別れた後、結局2ヶ月後に先生の山奥のお宅で制作を始めることになるのだが、その間に出会ったもう一人の先生、プジャ(Puja)氏に、まず工具の使い方ノウハウを学んだ。そしてバリの彫刻界の簡単な歴史と現実と。
この人のそのまた先生がティラム(Ida Bagus Tilam)氏で、バリ近代彫刻の祖とも言える、木のフォルムをダイナミックに生かした彫刻をつくる天才である。
その先生たちの村Masが、シャレじゃないが西欧人にそそのかされマスプロダクションシステム(先生が構想し、弟子が仕上げる)を構築し、世界に彫刻を売って「彫刻の村」として有名になるのだが、それはよかったのだろうか、悪かったのだろうか‥。
プジャ先生のショールームの片隅に、非常に妙な彫刻が置いてあった。
それは枝を使った細かい彫りで、森の精霊か魔物のようなものがびっしりと蠢いているようなもの。
バリで彫刻する人にとってこの作家は「何か」を表現するスタイルを編み出した天才、と捉えられている。「何か」とは、目に見えない精霊のようなもので、ヒンズーのロンタル(古文書)にある絵のようでもあるが、妙にリアルな肉体感覚をもったものである。
バリ人が見ると、その「籠っている何か」が感じられるそうで、当時の作家たちに多大な影響を与えたらしい。日本人の僕にも何となく凄みが伝わってくる。
チョコット(Djokot)という数十年前の人。
Tilam氏も大きく影響を受けているのが見てとれるが、
結局1年近く師事することになるウェチャ先生も実はそうだった。
若い時、生活のため土産物彫刻を作って売っていたのだが、Djokot彫刻を見てショックをうけ、いきなり「土俗シュールリアリズム」を始めてしまったくらいである。生活より表現欲求が勝ってしまったのだ。
それはかなりの所でわかる。
2ヶ月。体の血がバリに馴染むころ、そろそろいかが なんて声が聞こえたような気がして、Masから遠く離れた山奥の聖なる泉のほとりにある、Wetja先生の家に向かった。
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世界一周の途中、計画にはなかったBALIに偶然が重なって行くことになり、木彫と師に出会い、結局2年の旅の半分を過ごすことになったことは、僕にとって大変大きな意味があった。
それまで頭で表現していた平面の世界から、体から溢れ出る得体の知れない三次元の形を一心不乱に形作っていく興奮に、将に初めて生まれ出たような気持ちになったものだ。
なにしろ体が勝手に動いて喜んでいるのを、頭が驚いて眺めているのだから。
ワヤン・ウェチャ師をはじめ、その時点から出会い始める人たちもまた、新たな人生の局面を開いていって下さる。特に旅の間していた文通から個展を開いて下さったギャラリー美蕾樹の生越燁子さん、そこで評のお言葉いただいた伊藤俊治氏と詩人の鶴岡善久氏、そこに引き合わせて下さり、本当にいろいろお世話になった名和裕子さんにはとても感謝している。
yas-kaz氏はバリのパーカッション研究で滞在中で、一緒に遊ぶうちにBALIの入口を開けて下さり、IT起業家の関信彦氏も当時バリの大学に学んでいて、deepなBALIに引きずり込んでくれたお一人である。
伊藤俊治
バリの人々は島は独立した宇宙であり、大地は二頭の巨大なドラゴンにがんじがらめにされた亀の上にのっていると信じている。ヒンズーの世界では、亀は大地を支える存在であり、シバ神が乳海接伴による天地を創造した時、接伴棒となった蛇を海底で支えたのが、この亀であった。
しかしバリの神話世界の亀は、そうした固定された亀というより、地下のドロドロしたマグマを血液とする原型的な発光動物をイメージさせるように思う。そして活力にみちたこのイメージはバリの濃密な空気のすみずみにまで浸透していて、一度このイメージを自分のなかで写像させた人々は、もう二度とその流体を忘れることはない。
若山和央の彫刻には、その発光する動物が生きたままとりおさえられているようだ。彼の彫ったものを初めて見た時、そしてたまらず触れてしまった時、東京では見えなかったスペクトルが見え、見えなかった光が見えてきた。そこに刻みこまれたものは、形ではなく、波であり、光である。若山は彫刻というソリッドな物質メディアに、おびただしい光と波をあびせかけ、まるで太古の祖霊の身体のなかへ入りこんだような不思議な感覚を与えてくれる非物質をつくりだした。バリという大地の血液と自分の血液とを長時間かけて複雑にブレンドさせた一人の彫刻家が、その血をバリの古木に注ぎこんだ"形ではない形"はきっと目本のアートの世界にまったく新しい地平をきりひらくものになるだろう。
(東京芸大教授・美術評論家)
鶴岡善久
若山和央氏の作品を初めて見たとき、まずおどろおどろしい古代的エネルギーの放射に圧倒された。それは彫刻というより、異星から来た得体の知れぬ物体との戦慄的遭遇であった。若山氏は古い樹の内部に潜んでいる無垢のデッサンを、そのまま掬い取る眼力と技術に宿命的に恵まれている。若山氏は眠れる樹の本性(デッサン)への果敢な挑戦によって新しい物体を誕生せしめる。とはいえそれはまったく別種の物の創造ではない。樹の驚異的な可塑性に洽いつつ、若山氏はほとんど本能的に樹の彼岸に幻視されるフォルムを捕獲するのである。
若山氏の作品に見えるいくつもの鋭利な爪。それは存在への敵意を暗示している。宇宙の闇をひっかく激動の痙攣が爪の先からほとばしっている。爪は鳥の飛翔へ連なり、ときにめらめらと燃える炎の先端を想起させる。
若山氏の作品にいまひとつ顕著なのは独自な球体感覚である。それは例えばヘンリー・ムーアのそれとはまったく異質である。若山氏の球体は原始の混沌を内包した、ちからわざとでも呼ぶべき新しい抽象の出現である。換言すれば限りなくエロチシズムヘ接近していく意志の球的波動といってもよい。
さらに若山氏の作品に表れた筋肉にも注目すべきである。球体を突き破る形で突起する筋肉は、シュールレアリズムの筋肉とも名付けるべきかーー。オートマティックな弾性は無意識の空間を突き抜けて、強靭な生命そのものとして屹立している。
若山氏の制作の姿勢は、樹との不条理な和合である。樹に沿っているようで、それを不可思議な物体に一変させる呪術的技法。それはもはや樹霊にいざなわれて、物体の辺境を旅する行者の祈りそのものなのである。刮目してこの行者の行方を見守リたい。
(詩人・シュールリアリズム研究)
Yas-Kaz
バリ島プリアタン村から、夜明け前に、モーターバイクで出発。ゴア・ガジャ(象の洞窟)、ペジェン村のプナタラン・サシ寺院(月の寺院)を通りすぎて、タンパクシリン村グヌン・カウィに到る。
長い階段の途中で沐浴して、谷間の寺院に降り、王族の瞑想場に入る。無為の時を析るように味わう。 左の傍に彼の木彫の一つが端座している。濃密で瑞々しい空気、湿った岩肌と植物の匂い、せせらぎや、虫達の声。鳥達が眼覚める頃、私の中の何かが覚醒して、彼の彫刻から放たれる波動のシャワーを浴びる。静かで力強い至福の時。
大地の荒々しいエネルギーを無傷のまま浄化する、非物質的な装置。
まだ午前の内に再び、バイクで山の方に向かう。バトゥール火山(海抜1717m)の外輪山系(アバン山2153m、プヌリサン山1745m)の尾根づたいに点散する村々(約1300m前後)の一つペネロカン村から、バトゥール山と右手下方に広がる三日月湖バトゥール湖(幅約3㎞、本弭から末弭まで約7・5㎞)を見遥かす。足下の本弭にクディサン村、末弭にソガン村。左手、弦の中間部にトーヨブンカ村、対岸の弓の中間部にトゥルーニャン村。
クディサンの舟着場まで降りて、波打際の岩に座る。快晴、溢れる陽光が、揺れる波の幾千幾万の鏡に反射して輝いている。光の乱舞。一匹の青い蝶が、向こうから、湖面すれすれに渡ってきて、左の肩に停まる。深呼吸するように、羽を開閉している。ああ、まぶしい……。
バトゥール山麓の黒い溶岩の山肌の中の道を走って、トーヨブンカに到る。波打際を岩石で仕切っただけの浅い温泉に漬かる。砂の底、無色透明のぬるま湯の中を小魚の群れが泳いでいる。全身を横たえて浮かぶ。蚊はここまで上がってこない。耳は湯の中、目鼻、口はそよ風の中。優しい温もりと静寂。水の輪が寄せては返して、複雑な波紋が身体の際を愛撫していく。柔かい日溜り。
仕切りを越えて、清涼な湖面の水を切って泳ぐ。シューッ、シューッと、得体の知れない巨大な生物の呼吸のような水中音があって、根源的な畏怖感が湧き起こり、湖の中心にこれ以上進めない。水を宥めるようにして泳ぎ帰る。湖のどこか最深部にも、彼の彫刻のIつが潜んでいるのだろうか。
舟で対岸のトゥルーニャン村から300m程北の風葬場の舟着場に着く。トゥルーニャンとは白檀の意味で、白檀の大木の下、竹を荒目で編んだ囲いの中に一体ずつ、白骨死体が横たわっているが、腐臭もなく、自然に乾燥して風化していく。女声のアルジャ(バリのオペラ劇)の一節が聞こえてくるのに魅かれて、舟着場に戻る。湖に張出した木の桟橋。湖面は柔かい襞の天鵞絨(びろうど)のように凪いでいる。岸は10m程の切立った岩壁。傾き始めた陽が右手ななめ前方から、湖面に、揺らぐ光の道を作っている。天然の水舞台。初老の女が丸木舟を操りながら歌っているのだ。
12才位の男子が、もう一艘の丸木舟で寄りそっている。魚をとっているらしい。光の道をゆっくり向ってくる。素晴しい高音の地声が湖面に響き渡り、複雑にうち震えながら天空に消えてゆく。
そうだ、きっとここは風の源。天地の間の巨大な鞴(ふいご)の源に私は立っているのだ。
トーヨブンカからペネロカンに戻り、尾根づたいにバトゥール村に到る。陽もすっかり暮れかかっていて、先程の天気が虚のように、霧がかかってくる。風もでてきた。いや、むしろ雲の上にいるというべきか。空は高くて、明るいのだが、尾根の周辺だけ霧に包まれているのだ。バトゥール寺院に入る。誰もいない雲の中の寺院。ふと、不思議な音に囲まれているのに気づく。
風が遥か彼方から運んでくるような、秘やかでかすれた笛の音の群れのような音。スナリの音だ。
大きな祭りの前日に、竹棹を寺の四方の高い所に立てる。竹には一節ごとにスリットが入っていて、風が笛のように演奏していくのだ。悪霊を海に追いやるための悪魔払いの音響装置。
しばしば方向感覚と重力感を失ないそうになる。境内の中央の地面すれすれに浮いている彼の作品。
雲の切れ目からの月の光を集めて、青白い光を照り返している表面、触れることのできそうな光。
しかし、この青白い炎のようなオーラの炉心部には、想像を絶する熱度と速度があって、容易に触れることはできない。
これら、バリ島に遍在する深い場所と時間には、きっと彼の彫刻が潜んでいるに違いないと思うのだが、それは、彼の作品がバリのスタイルだということではなく、むしろまったく異質な彼独自のスタイルでありながら、バリの文化、宗教の最深部と通底し響きあっていて、それらに桔抗する強度を勝ちとっているからだと思う。世界の臍で彼は何を観たのだろうか。
(音楽家 パーカッショニスト)
Produce : 生越燁子 Art Space Mirage
Photos : 内藤忠行
Space Design : 高橋新三
Print(cooperation): 日本写真印刷
Cooperation : 名和裕子