ともだちのことば of LIWS



若山和央

 ヨーコが何者だったのか。今年始めに亡くなった彼女の遺品を整理しているうちにようやく少し判ったような気がした。今頃。
 これはどうも僕の心の中で、何故か彼女を怖がっていた部分、だったのかもしれない。
僕の卒業制作への協力、バイク仲間でツーリング、通信講座講師同僚、家が近所、…と何かと接点があったのに、全然知らないままだった!と気づいた。何とも遅い!
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 ヨーコは実にこつこつと好きな絵を描き続けていた。そしてその絵をより美しく、風格を醸せるように、という意識があったのだろう、古典の模写から技法を学び、余計な遊びや交流を断ち、アルバイトをしながら、習っていたのはピアノ、バレー、声楽、乗馬…。
 何と美学的で求道的な生き方だろうか。こんな時代に。
 人間の徳が高い位置にあった時代の断片を自分の周りにちりばめ、
その中で気ままでおきゃんな姫様を演じ…と、我々とはおおいにずれた位相の空間に住んでいた。
 そんな「純」はとても眩しすぎたし、加えて あの大きな澄んだ目に見つめられた日にゃ、薄汚れて暗い、自分の心の隅っこが照らされて、あの皮肉なオヤジのような笑い声で明らかにされてしまうのだ。
 でへへへ…と。
 そんな訳だからか、無意識のうちに彼女の1m以内には近づかないようにしていたのだろう。
 しかし 僕がもう少しまっとうに生きるつもりだったのなら、もっと側にいるべきだったのだ。惜しい。

 何たって「松尾家のシマちゃん」が泣ける。
 凛としてすっくと前を見据える姿の、その縞模様の中に細かく入れ込まれたシマちゃんの人生遍歴。
そこにヨーコは密かに自分の夢をオーバーラップさせて織り込んでいるように見える。世界中いろんな所への旅、クジラや帆船、冒険、ステージで唄い、踊り、インディアンと西部劇…。そんな風に生きたかったんだろうかという想いと、その元気さと明るさ、おふざけは端から見るヨーコそのもの。なのだが、
もっと奥にあって、周りのヒトには見えなかった彼女の本質が、シマちゃんの顔に表わされてしまっている。絵は隠せない。
 何と崇高な、猫の顔した ヨーコの自画像であろうか。
 そう これからたまに拝んで、自分を律する励みといたしましょう。
 猫の天使さま。

廣川じゅん

写真5.JPG 陽子と出会えた事を誇りに思い感謝します。

 初めて陽子を見たのは芸大の入試二次試験の色彩構成の時でした。
びっくりするような華やかな面立ちの女子が、これまたびっくりするような大胆な構成で画面いっぱいの紫のグラデーションでパンジーを描いていたのが印象的で、強いエネルギーを感じました。

 そして、入学して一緒に行動するようになり、それはそれはハチャメチャで元気一杯の時代を楽しく共有しつつ、彼女の想定外の個性にいつも新しい驚きと戸惑いと興味を更新し続ける日々でした。
 美しさとは裏腹な声でふざけたり騒いだり、信じられない程奔放な行動をするかと思えば実は生真面目で細やかであったり、勉強全然ダメだと言いながら実は博学だったり。イコールで繋げない、統計学では測れない彼女はいつも新鮮でした。
 心情的な事や悩みや迷いなども一番話し合ったように思えますが、お互い気が強かったのでケンカをして暫く口もきかないような事も何度かありました。多感な時期を共有しました。
 四年間一緒にあちこちのステージに立ったバンド仲間であり、芸祭のライブハウス「ベティ」のメンバーであり、文字通り一緒に肩で風を切って学生生活を楽しみました。
写真6.JPG お互いの暗黙の演出で曲の最後に2人で目を合わせるShakey flat bluesは何百回歌った事でしょう。思い出すと溜息がでます。
 卒業して別々の会社にデザイナーとして就職し、その後私は結婚出産でしばらく家庭にこもり、その間に彼女は職場を変わりながらも多彩な方面の才能を伸ばし、自分を常に磨く人でした。私の結婚式の時には、まるでバチカンの衛兵のような大胆な黒と金の自作の衣装で「セレナータ」を朗々と歌ってくれたのはまだ耳に残っています。

 少しずつ会いながら、少しずつ世界がお互い違ってきて、だんだん自然に距離が開いてしまいました。

 時を経て、また私は徐々に創作活動に戻り、陽子は猫の絵を描いていました。彼女は自分の生活の為に絵を描く事はせず、他の仕事をしながら大切に作品を作り続けていたのでしょう。

 最後に会ったのはデザイン工芸の同窓会で、少し前に胃癌の手術をしたけどもう大丈夫との事で本当にパワー全開で生き生きしていて、その時に「らくらくホン(笑)買ったんだ〜!メールちょ!」とか言っていて、その後数回メールのやり取りをしたきり、いつのまにか気になりつつも日々の雑事に追われ、でも、絶対陽子は元気でやってると思っていたところに突然寝耳に水の訃報でした。
 あるいは、うっかり時間が経ち過ぎて意識下で連絡を取る事に対する恐怖があったのかもしれません。

 そして連絡しなかった事に始まり数々の後悔と小さくなって消えてしまったような陽子のイメージを抱きつつお姉さんが待つ陽子の家に最後のお別れに行きました。

 扉を開けて室内に入るなり、自分の想像は間違いである事と共に、陽子の生き様が初めてすべて理解できました。まさにそこは陽子のパワースポットで、鹿の頭の剥製の壁飾り、豪奢な西洋骨董の家具や金のベッド、猫足のピアノなどに囲まれた陽子の宮殿でした。
次々と未発表の素晴らしい絵画作品に加え、雛人形や五月人形の一式など日本の四季折々の自作の作品も出て来て弔問に訪れた皆の目を奪いました。

 陽子は、小さくなどならなかった。可哀想なんかじゃなかった。
 何かの会に誘っても、お金がないとか、翌朝が早いからとかではなく、そんな時間があれば、この世界の中で優雅に自分の創作活動の姿勢を全うしたかったのだという事が瞬時に理解出来ました。。また最後にビックリさせられた訳ですが、
それは、彼女に与えられた時間を予知しての選択だったのかも知れないと今になって思います。

 闘病中の様子を弥生さんから伺い、これでよかった。きっと誇り高い陽子は病床の姿を私や皆に見せたくなかったのだと思いました。
じゅんとヨーコ.png今でも時々陽子の話し声、笑い声、歌声がすぐ隣にいるように思い出します。
 このまま、お婆さんにはならないで若い元気で美しく面白いヤツのまま私や友人達の心の中で生き続けるのでしょう。
ちょっとずるいぞ。陽子。

またいつか会おうね。

 それから、大浦食堂のおじさんに言わなくては。
 何十年経っても、たまに芸大に行って私を見つけると「あ、じゅんちゃん、元気?陽子ちゃんは?」と聞くのです。辛いなあ。知らせるの。

岡田弥生

ポートレート.jpg 初めて彼女を見かけた時の印象があまりに強烈だったので、「ベルバラ」とあだ名をつけました。華やか艶やか、ふりふりフリル、白にピンクにゴールド、まるで昔の少女漫画から出てきた人みたいだったから。
 私を通じて彼女と知り合った人たちは、「ベルバラさん」と呼んでます。
 ふだんは「陽子ちゃん」と呼んでいました。「よーこ」と呼んだことは、一度もなかった。学生時代の、すっぴんの「よーこ」にも、会いたかったなあ。

 彼女は家族からは「あをんくん」「あんくん」と呼ばれていました。生まれた時、未熟児で小さかったくせに、産声がものすごい音量で「あをーーーん」と吠えるようだったそうです。ソプラノ歌手は産声からして素晴らしいソプラノだとか言われますが、「あんくん」もあの細い身体で、ものすごい声量でした。病院でも声が大きいので、ちっとも「弱っている人」ぽくなかったです。(誤診で彼女を苦しめたお医者に向かって「このヤブ医者!」と吠えた時は、廊下を越えてナースプールまで怒号が響き渡った、という伝説も)
 話がそれました。「あんくん」の「くん」は、長女次女と続いて3人目は男の子を熱望していたお父さんが、小学校にあがるまではずっと男の子の格好をさせていたので、「あんくん」となったそうです。
 ミチヨお姉さんの証言。「小学校に入った時からスカートをはくようになって、一気におリボン、フリルに変わったようです」

 そして長じてベルバラに。
自慢だった豊かな髪の毛やまつ毛を失っても、全然めげなかった。
 市販のエクステンションをほぐしてバンダナに縫い付けて、顔のまわりでカールした髪の毛をふわふわさせてました。あくまでも、派手でしたねえ。
 かと思うと「弁髪のチャイナ美人?」「頭の上に毛が3本オヤジ」のコスプレ写メールくれたりもしました。
 牡羊座の闘争心と、名前の通りの陽気さは、最後までぶれなかった。
 もっと弱いところを見せてくれればよかったのに、と思うけど。
でも、ね。

榎本洋二

写真.JPG「太田 陽子さん」 まさに太陽の子の様な人でした。
誰にでも優しく深い愛情を持って接してくれる寛容なところはあるけれど、中途半端な態度で近づくと厳しさを思い知らされる。
 或る意味、内にたおやかさと激しさ、孤高なるものを湛えて居る様なそんな存在でした。絶えず笑いの中心に在って皆の気持ちを和ませてくれる…、でも次の瞬間遥か遠くを見ていて皆とは違う次元にいる陽子の横顔が其処に在る。
 もう今は太陽の子では無く、本当の太陽になってしまった陽子さん。天空から暖かい愛で地上の我々をどうぞ見守って下さい。 合掌

つのいてんこ

 ヨーコへ
ヨーコにお別れをいいに行った日。
ヨーコの部屋には濃密にヨーコのアニマが満ちていました。
何ごとにもとらわれず、まさに猫のように自由に創造的に生きたヨーコ。
部屋の一隅に積まれた箱の中から、まるでダンテの神曲のような
羽の生えた猫たちの絵が出てきたとき、今ヨーコがそういう光りのさす場所にいるのだと分かりました。
私を含め、皆少しずつ心のどこかにヨーコと疎遠で居たことを悔いる気持ちがあったけれど、
そんな私たちを開放してくれたヨーコ、ありがとう。
ヨーコから大切な贈り物をもらったような気がしました。

ヨーコは物理的な意味でも、こつこつと皆への贈り物を作っていたのかもしれません。
それが特定の誰かであったり、不特定の誰かだったり。
それはアーティストとして根源みたいな作業でしたね。
ヨーコ作のお雛様がじゅんの手に、鎧兜が渋谷君の手に渡ったのは
とても正しく必然な感じがしました。
そして、私のところへは小さな節分飾り「福と鬼」が届きました。

私たちが皆若く、まるで動物のようにじゃれあって遊んでいた頃、
いつもヨーコがいましたね。ある時は笑いながら中心に、ある時はひとりひっそりと
群れから離れて。そんな時のヨーコの横顔を忘れることができません。
ヨーコ、あなたはすてきでした。これからもずっと私や皆の心の中に生きていて下さい。
もう一度お礼をいいます、ありがとうヨーコ、また会おう。

土屋 孝元

「僕たちのクラスには、いつも明るい彼女がいた。」
 僕が彼女を初めて見たのは、芸大に入学して数日も立たない、芸大美術学部の食堂、通称「大浦食堂」でした。
 僕はお茶美出身なのでお茶美仲間と自然に集まり、授業と授業の合間も集まっていたのです。大浦食堂前のテラス席が美校の学生の集まる席で、その場所で彼女を見かけたのでした。
 その場所にはあまりにも不似合いな、まるで、不思議の国のアリスの世界からやって来たような服装で。ヘアースタイルといい顔つきといいまさにアリスそのものでした。後に知ることになるのですが、彼女のその服、当時のポパイ創刊、アメカジ全盛時代にはあまりにもクラッシックなドレスは、自らのお手製だったのです。
 その後もとてもシックで素敵なファッションで、あるときはメーテル、魔法使いの魔女、西部劇のカラミティ・ジェーン、と僕たちを楽しませてくれました。最近でこそ見かけますが、30数年前の卒業式には、大正浪漫風の着物に袴スタイル、ブーツを履き、大きなリボンを付け、まるで夢二の世界からやってきた様でした。
 僕はデザイン科のビジュアルコミュニケーションを選択しました。彼女と同じクラスになり、少ない同級生の1人となったのです。男性11人、女性3人、後にこのクラスでグループ展を開き、「セクシー3&ダンディ11」なんてタイトルで作品を展示したりしたものです。
 3年の時には、クラスで大阪の民俗学博物館見学があり、2泊3日の研修旅行に出かけることになり、僕たちは、クラスメートとみんなで「ホワイト」しばりで来ることに決め、それぞれが工夫を凝らし、集合場所で落ち合ったのです。現地集合現地解散でした。
 服装が全体もしくは一部 白くないといけないという決まりで、伊勢の津の駅前で白い一団が集合したのです。クラス全員が白一色で変な集団に見えたことでしょうね、
 今では、楽しかった思い出での一つです。彼女は白プラスヒョウ柄で颯爽と現れ、もうこのころには、ヨーコちゃん(彼女はみんなからこう呼ばれていました。)はこういうアイデンティティだとみんな理解し不思議には思いません。彼女のある面を見たのもこの頃です。それは、美大とはいえ、学科の授業もあるわけで、その中で、僕は「音楽」という授業を受講しました、ヨーコちゃんと同じ授業を受けていたのです。
 当時の授業は といえば、現代音楽を聴きながら、シェーンベルクの現代音楽作曲法、12音技法、など。先生曰く、「君たちのピカソやカンディンスキーの現代美術と同じだよ。」と、いうのですが、かなりの難解さでした。
 少し難しくもありましたが、音楽学部との共通の講義であまり見かけない種類の人達(音楽学部の人たち)を見るだけでも楽しい時間でした。
 当時、一番大きな階段教室で机を並べて聴講していると、普段見れない真剣な表情でノートを取っていた姿を思い出します。
 4年になると卒業制作に入ります、美大はこの卒業制作が重要で何を作るかで悩む時期でもあるのです。みなこの頃には自分の進むべき方向性や得意不得意により、制作するものが見えてきます。ヨーコちゃんは猫好きなのと古典技法的な表現方法で中世のエリザベス1世の様なドレスを着た猫とフィレンツェの枢機卿かはたまたアンリ・フランソワの様な衣装を着た猫の肖像画を描きました。一貫して猫と古典がテーマだったような気がします。後にバレエを習ったり、この発表会もクラスメートで見に出かけたものです。乗馬を始めたり、オペラ歌唱のような歌を歌ったり、自分の作品の世界感を再現するために、いろいろと精進もしていたのでしょう。その一部にあの「音楽」の授業もあったのだと思います。
 前のクラス会で会った時にも、明るく元気に振舞っていた姿を思い出します。
 僕たちクラスのなかでは、いつも明るく、元気で、居るだけでその場が華やいだものでした。
 胃を悪くしたとは聞いていたのですが、その時も普段と変わらずにいたので、
大丈夫だろうと思っていました。仲間とカラオケの時に歌う歌は「夜来香」「蘇州夜曲」越路吹雪の「サントワマミー」「ろくでなし」美輪明宏さんの「ヨイトマケの歌」これで世界が想像できると思います。
 芸術祭の学内バンドでも彼女はボーカルでスターでした。
 いまでも、彼女の唄うあの声が耳に残ります。
 容姿に不似合いな声で「ガハハ、、、。」と笑い、柳家金語楼の顔真似をしてみんなを笑わせ、教室(クラスのアトリエ)では、紅茶を入れて飲んでいた記憶があります。
最近、ヨーコちゃんはどうしたのかな、と、気にはなっても連絡はしていませんでした。
 また、ある時期からは、連絡しても、仲間の集まりに参加しなくなり、だんだんと僕もみんなも忘れていたのです。彼女は自分の世界を追求し、いろいろお稽古に通い、ひとり コツコツと自分の世界で絵を描き続けていたのです。
 それはあまりにも突然でした、亡くなった知らせを受け、そのあとクラスメートからの連絡で、お姉さまから、もう九州の実家に帰り、ヨーコの部屋も整理するので、最後のお別れにきてください。と、急な連絡があり、行けるメンバーみんなで出かけ、彼女の部屋へ入った途端、彼女が目指した世界のほんの一部を見たような印象でした。部屋全体が彼女の作品なのです。ピアノ、オペラ歌唱の楽譜、鹿の剥製が壁に掛かり、猫脚キャビネット、お手製の品々。なんとミニチュアお雛様やお道具までも。ゴージャス&ビューティフル、クラシックでキュートな世界でした。なんでも、自分で手作りして、より完成度を高くする、納得いくまでの仕事ではないと、気が済まなかったのでしょう。同じ歳で50代後半になり、美大を出て、なにを残さないといけないのか、教えられた気がします。
 猫と古典絵画と大好きな世界を愛し、闘病中も明るく、過ごし、年末から体調もすぐれぬ なかで、大晦日、紅白の美輪明宏さんの「ヨイトマケの歌」だけは、きちんと聞けて、年明けてから旅立ったとお姉さまから聞きました。
 これが、僕の記憶と思い出のなかでのヨーコちゃん、です。人にはいろいろな面があり、全てを見ている人はいないと思います。違う印象だったという仲間もいることでしょう。人にはいろいろな面があっての魅力だと、、、。いまでも、ふらっと笑いながら、「お待たせ、」と、仲間の集まりにあの姿で現れるよう気がします。

深谷哲夫

ある日、天使は帰ってしまった。
それを知らされた時、突然のように思えた。
でもそれは、よくある話になぞらえてしまった街のうわさ。
そんな風に、あの猫さまを捉えてはいけない。
些細な時の流れなどは、彼女が描く白い雲の浮かぶ青空の前には一目散。
ルネサンス期のフィレンツェのアルノ川にも、昭和の神田川にも、ひなたぼっこに飽きた猫ちゃん達がそぞろ歩く悠久の時がある。
みんながつまらないことにしばし気を取られているあいだ、
彼女はそこで思いに耽っている。
ということを、ある日の夕方、
残像のように奏でられていた天上の調べが教えてくれた。
その夕暮れは、いつものように降りて来た。
あの川べりは、風を感じた時にはいつもそこにあると気づかされた。
そりゃそうさ、天使はいつもそれとなく一緒に居るものだからね。

もし猫さまが、あの頃の王国へとしばし姿を消したなら、
そのあいだ、僕たちには天使がいる。

(深谷氏はヨーコのサイトのトップ扉の言葉も書いてくれました。)

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